北京大学に1年留学した氷河期世代。あの経験は今の仕事にどう活きているか

1998年、21歳のとき、北京大学に語学留学した。

大学3年の1月か2月ごろから、約1年間。あれから四半世紀以上たった今も、あの1年は自分の中で特別な経験として残っている。


きっかけは高校の先生と、友達のひと言

高校のとき、社会の先生が言っていた。「これからは中国が伸びる」と。

その言葉が頭に残っていて、最初は中国語学部に入ろうとした。結局は経営学部に進んだが、大学でも中国語の勉強は続けて、中国研究会というサークルにも入っていた。

留学するかどうかは迷っていた。背中を押したのは、友達のひと言だった。

「お前、中国に留学行くんだろ」

そう言われて、行くことにした。人生の大きな決断が、案外こんなものだったりする。


1998年の北京

住まいは大学の寮。二人一部屋で、最初は日本人、次はキルギス人がルームメイトだった。部屋には机とベッドとちょっとした棚、それからお湯で部屋を暖める設備。食事は学校の食堂が主流だった。当時は円が強く、食費は驚くほど安かった。

授業は中国語が中心。文語と口語を学んだ。

1998年の北京は、戦後間もない日本のような感じがした。ただ、人の量、車の量、土地の広さ、どれも日本とは比べ物にならないくらい大きかった。

街にはものが溢れかえっていた。パソコンの部品、偽物、海賊版CD。ありとあらゆるものが売られていた。その一方で、道を歩けば物乞いの人がいた。ギャップがものすごく激しい街だった。走っている車は2、3種類しかなかった。


中国をほぼ1周した

留学中の一番の思い出は、旅行だ。

新疆ウイグル自治区、チベット、雲南地方。冬には東北地方の吉林・ハルビン、北朝鮮とロシアとの国境まで。中国をほぼ1周するくらい旅をした。

北朝鮮とロシアの国境に行ったときは、国境が有刺鉄線だけだったことに驚いた。写真をパチパチ撮っていたら衛兵が来て、フィルムを抜かれた。写真はパーになった。

アモイに行ったときには、人民解放軍に軽く軟禁されたこともある。

夏に中国をたっぷり旅して、自信満々で北京に帰ってきた。中国語も上達しただろうと思っていたら、北京の言葉が一番難しかった。


就職活動では武器になった

帰国後の就職活動は、氷河期ど真ん中だった。

それでも、中国語が少しでも話せるというのは武器になった。留学経験のおかげで、面接での話題にも困らなかった。

内定をもらえた会社は、貿易部で中国との取引があるところだった。留学経験は、ちゃんと役に立った。


中国工場との折衝で活きた

その後のキャリアでも、中国語が効いた場面がある。

転職歴の中に、アパレル工場で海外生産管理をやっていた時期がある。大手スポーツメーカーの子会社で、中国語をやっていなければ、たぶん入れていなかったと思う。

当時の日本のアパレルは、中国工場に生産委託するのが主流だった。今のベトナムのような位置づけだ。中国出張もよくあった。

こちらは発注する側のメーカーで、間を取り持つ商社の人がいつも一緒だった。現地の人は発注側の自分たちにはすごく親切だったが、商社の人は大変そうだった。立場が違えば扱いがまったく違う。中国は商談相手としては厳しい国だろうな、と肌で感じた。

ある商社の人に言われたことを、今でも覚えている。

中国では「どこの会社」がやっているかではなく、「誰が」やっているかが大事だ。

会社の看板よりも、目の前の人間同士の信頼。この言葉は、その後の仕事人生でも何度も思い出すことになった。


あの1年が、今も効いている

北京留学は、自分にとってものすごくプラスの経験だった。

中国で生き抜くたくましさ。物事をどう伝えるかという工夫。言葉が完璧に通じない環境で1年やっていくと、「ひとつの伝え方でだめなら、別の伝え方を探す」という発想が身につく。

今の仕事でも、ひとつの考え方に固執せず、いろんな角度から考えて、いろんな伝え方を試す。その土台は、あの1年で作られたと思っている。

そして何より、自信がついた。

辛いことがあっても、「中国留学時代に比べれば辛くないな」と思える。あの経験が、自分の中の基準になっている。

21歳のとき、友達のひと言で踏み出した1年が、アラフィフになった今も自分を支えている。

やってみることに、無駄はない。

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