新卒で入った東京の会社を、1年で辞めた。
留学で身につけた中国語を武器に、それなりに華々しく社会人生活を始めたはずだった。でも1年後、私は眠れなくなり、電車にも乗れなくなって、逃げるように地元へ帰った。
これは、私の社会人スタートの話だ。
中国語が、就職の武器になった
2000年、23歳。北京大学に1年留学したあと、大学を卒業して就職活動をした。時代は氷河期のど真ん中。それでも、中国語は確かに武器になった。
面接では、当然のように留学の話になる。「HSK(中国語の検定)5級を持っています」と言い、正式名称の「漢語水平考試(ハンユー・シュイピン・カオシー)」を中国語の発音で言ってみせると、面接官が「おおっ」と反応する。留学中に中国をほぼ一周した旅の話も、いつも食いつきが良かった。
内定をもらえたのは、東京の医療機器メーカー。超音波診断装置を作っている会社で、中国をはじめアジアと取引があった。貿易部への配属。中国語をやっていなければ、たぶん入れていなかったと思う。
意外と、中国語は使わなかった
ところが、実際に働き始めてみると、思っていたのとは少し違った。
私が主に任されたのは、香港向けの保守業務だった。中国とのやり取りは、あいだに日本の商社が入っていたので、自分が中国語を話す場面はほとんどない。香港とのやり取りは、中国語というより英語が中心だった。
ここで初めて、ビジネスコレスポンデンス(英語のビジネス文書のやり取り)というものを経験した。留学で身につけた中国語ではなく、英語で仕事をする——想像していなかった展開だったが、それはそれで新鮮だった。ベトナムとの取引もあったが、こちらはスポット的で、たまに関わる程度だった。
仕事の中身は、故障した製品の対応が中心だ。とはいえ現物が本社に届くことはあまりなく、故障の内容もだいたい決まっていた。プローブ(超音波を出す部分)の不具合か、基板の故障。そのどちらも、修理ではなく交換で対応する。新人だったこともあり、現地への出張はまだなかった。
華やかな「海外と仕事」のイメージとは違う、地道な事務仕事。でも、社会人一年目としては、こういうものなのだろうと思っていた。
トマトと卵の炒め物
この会社で、忘れられない出会いがある。
中国から技術研修で来日していた、40〜50代の男性。超音波診断装置の技術者だったか、研究者だったか。その人のサポートも、私の仕事のひとつだった。
寮が一緒だったので、たまに様子を見に行った。彼は日本語があまりできなかったから、会話はもっぱら中国語。留学で覚えた中国語が、こういう形で役に立った。
あるとき、彼に中国の家庭料理を教えてもらった。西紅柿炒鶏蛋(トマトと卵の炒め物)。私の好きな中国料理で、リクエストして作り方を教わった。異国で働く中年の彼と、社会人になりたての私。言葉も立場も違う二人が、寮の台所でトマトと卵を炒めている。今思い返しても、あたたかい記憶だ。
でも、東京で心が折れた
順調に見えるかもしれない。でも、内側では少しずつ崩れていた。
学生と社会人のギャップに、私はうまく適応できなかった。
はっきりした大きな出来事があったわけではない。ただ、じわじわと追い詰められていった。夜、眠れなくなった。不眠症だ。眠れないまま朝を迎え、体調を崩していく。
そのうち、電車に乗れなくなった。動悸がして、息が苦しくなる。今でいうパニック障害だ。でも当時は、そういう病名すら一般には知られていなかった。自分の身に何が起きているのか分からず、どう対処すればいいのかも分からず、ただただ困り果てた。
東京には、人はいくらでもいる。でも、私には頼れる知り合いがほとんどいなかった。寮で一人、この巨大な街で暮らしていくことが、だんだんきつくなっていった。東京砂漠、という言葉が、あのときほど身にしみたことはない。
世相も、どこか暗かった。1999年から2000年へ。世紀末という言葉が流行り、世間を騒がせる事件も続いて、終末論めいた空気が漂っていた時代だった。若い私の不安を、時代の空気がさらに重くしていた気がする。
1年で、地元に帰った
結局、1年で会社を辞めた。
心と体が、これ以上はもたなかった。無理を続けて壊れてしまう前に、東京を離れて地元に帰ることにした。
華々しく始めた社会人生活の、あっけない幕切れだった。当時は「逃げた」という感覚もあったと思う。人からは「都落ち」と言われたこともあった。
あれから振り返って思うこと
今になって思うのは、あのとき帰る決断をして、よかったということだ。
心を壊してまで、しがみつく必要のある場所なんて、どこにもない。若い自分は「1年で辞めるなんて」と自分を責めていたけれど、あそこで無理をして本当に潰れていたら、その後の13回の転職も、今の暮らしもなかったかもしれない。
眠れなくなること、電車に乗れなくなること。それは「弱さ」ではなくて、心と体が「もう限界だ」と教えてくれるサインだ。あのころの自分に会えるなら、「それはお前が悪いんじゃない」と言ってやりたい。
社会人一年目でつまずいた。中国語という武器も、思ったほどは活きなかった。それでも、あの1年で得た経験——英語の仕事も、寮で食べたトマトと卵の炒め物も、そして「無理をしすぎない」という学びも、確かに自分の中に残っている。
つまずいたって、やり直せる。氷河期世代の、これはそんな始まりの話だ。
やってみることに、無駄はない。